SNOPAN PHOTOGRAPHY / BLOG

外資で未来のスマホカメラを研究開発するオッサンの戯言

内なる声

今回は100%オッサンの戯言です。

 

ステキな写真を撮る人はたくさんいて
眺めてるだけでも幸せな気分になる。

有難く拝見して、意識の内なる部分のタンクに放り込んで
その先は無意識に任せる。

自分への絵的な糧(INPUT)になって
内なる声の何かしらの変化、願わくば好ましい方向への変化を
なんとなく期待しながら。

 

何処かに出かけて
あるいは近所で
あるいは何かのついでに
このフレームいい(好きだ)な、と思って切り取る。
その場の光を楽しむ。
その場でのフレーミングの偶然性を楽しむ。
(これは狩りの感覚に近いのかもしれない)

こういった一連の行為の源泉となる自分の中の内なる声は
おそらくはINPUTによって少しずつ変化している。

そしてこれらの行為もまたINPUTになる。

 

意識的に「習う」(真似ると言っても良い)のは
自分へのINPUTとして意味があると思う。
内なる部分へのINPUT。

真似た結果として形は残るけど
僕としてはOUTPUTというのとはちょっと違うと思ってる。
一般には習作と呼ばれるアガリ。

いやでもね必要ですよ。全然悪いことじゃあないと思います。

 

血湧き肉躍る音楽とかあるじゃないですか。
あるいは耳にするだけでどんより塞ぎ込んでしまう音楽とか。
同様に、観るだけで吸い込まれる写真とか
無限の記憶の彼方へ飛ばされる写真とかあるじゃないですか。
楽しい記憶、悲しい記憶、嬉しい記憶、辛い記憶。

 

僕の場合は、目にした絵なり写真なりがアリかナシかは理屈ではなくて
本当に全く理屈ではなくてですね。
頭の裏側というか気持ちの裏側でピコーンと灯りがついたらアリ。
つかなかったらナシ。大体1秒2秒です。

なぜついたか、つかなかったか、は後で考えて
アリorナシとのマッピングを取る、みたいな感じですかね。

 

最初に書いたINPUTと、自分の経験(人生経験、写真経験、諸々)
そしてそれらの相互の感覚的な感情的な結びつき。
そういうの全部を鍋にぶっ込んで、出来上がった何かによって
その後の「ピコーン」フラグの立ち方が変わっていく。

なんかそんなふうに感じます。

 

って、自分の写真との付き合い方みたいなのを振り返ると

周りからor自分の行動そのものによるINPUTと
自分を取り巻く環境との何らかの作用と
その結果として自分の中から出てくる何かとの関連性を楽しむというか

結果としてより自分が血湧き肉躍るようなOUTPUTが残せるように
自分が勝手にイメージしたOUTPUTのストライクゾーンに入るように
そちら方面の評価関数の重みを多くしながら(自分の中の反応を)楽しむ

そんなふうに見えます。

 

 

・・・・などと意味不明の供述をしておりw

 

 

まあ、冗談はさておき。

 

なので、他人様のために写真が撮れる人って
純粋にすごいなって思います。

僕は僕の観たいようにしか観ないし撮りたいようにしか撮らないし
見せたいようにしか見せない。

現実がどうだったか?とか、割とどうでも良いです。

そもそも今の写真技術で現実を記録&再生できるとは
全く思っていないし。

なんとなくは残せますけどね。なんとなくね。

 

 

以上、今週ずっと修羅場で疲れてるオッサンの戯言でした。