SNOPAN PHOTOGRAPHY / BLOG

外資で未来のスマホカメラを研究開発するオッサンの戯言

微小時間キュレーター

たとえばLIVE演奏(ベース)しているときに

  • 今、この瞬間(時間軸で1拍~2拍くらいのスケール)でどの位置に音を置くか
  • 2小節くらいの時間軸でどうラインを組み立てるか
  • 8小節くらいでどう組み立てるか
  • 曲の流れとしてどう組み立てるか
  • ライブ全体の中の1曲としてどう攻めるか
  • その日のLIVEはどういう位置づけか
  • 音楽は自分の中でどういう位置づけか

みたいに、時間軸のスケールごとに何重にも意識が重なっているんです。楽器演ってる人って大体こんな風な頭の動き方してるような気がする。たぶん。

まあ実際に演奏しているときは最初の4つくらいがリアル時間軸で同時に考えられる事ですかね。最初の方ほど秒針のように忙しく動いていて、下にいくほど分針、時針のようゆっくり。

 

étude

 

で、ですね、上には書いていない、普段ボケーっとしてるんだけど何かの拍子に「あ、それそれ!それイケてる!」みたいにいきなり発言するプロデューサーというかw アメリカ横断ウルトラクイズの頭の上の電球ピコーンというか。そういう「揺るぎなく絶対的にジャッジを下す自分の中の無意識の何か」がいるんです。こいつは上記のあらゆる時間軸の意識の動きに対してジャッジを下してきます。僕が常々「内なる声」と呼んでいるのはこのピコーンの事です。

上記の意識のレイヤー構造や内なる声を冷静に認知したのは、ハードスケジュールでベースを弾いていたときですかね。それまではピコーンと来たときにそのままよく考えずに発言したり行動したりリアクションしたりしてたように思います。心の動きを冷静に分析できる歳になったってことですかね。わかりませんが。

 

Summer days -22-

 

ピコーンの由来は正直わかりません。対象はあらゆる物事です。人、食事、場の雰囲気、仕事、街並み、色、弦のタッチ、匂い、趣味、天気、ラジオDJの声、ニュースの内容、TVCM、画、写真、音楽、水、ありとあらゆる物事です。まあ、多分先天的後天的な要素で作り上げられた何かなんだとは思います。そして私はピコーンに全面的に従うようにしています。

平たくいえば、良いと思ったものは自分にとって絶対的に良い。他人がどうこう言おうとそんな他人の価値観に基づく判断は知ったことではない。ということです。当然、非常に偏った危険な考え方です。ので、人様に迷惑をかけない範囲で、という社会性リミッターをかけます。あと、本当に自分が好きな物事に対してのみ、この考え方を貫こうと。すなわち音楽と画(写真)です。

思えば、数学やら物理やらはもちろん幼少のころから好きでしたし、学ぶこともそれほど苦ではなかったのですが、その分野においては圧倒的にピコーンが少ないような。故に、日々の糧として仕事にできているのだと思います。

ところが音楽や画や写真などではピコーンと来たら寝食を忘れて没頭するし「はあ?」と感じてしまった物事は絶対にやりたくないのです。自分の価値観で受け入れられない事をやろうとすると心の底からものすごい勢いで全身全霊で絶対拒否するんですね。なので仕事にはできないと思っています。好きなものは好き。ピコーンと感じるものは絶対的に好き。他人の価値観など全く関係ないです。画も写真も音楽も、自分の価値観で徹底的に探索するし、その延長線の遥か彼方の先人はどこまでもDigします。*1

 

Summer days -28-

 

さて、やっと本題ですw

敬愛するカメラマンのV氏、出てくる写真の傾向が全く違うのにも関わらず、写真を撮る際の心構え的な点で共通項が多い、という点で非常に興味深く、ときどきスタジオにお邪魔させていただいたりしています。(ありがとうございます)

そして、これも予想通りなのですが、アウトプットの方向性が違うので出口に近いところの話題になると、スタンスも主義も全く違います。ま、当然です。想定内。

 

作品。について自分はどう考えるか。

長々と前述したとおり内なる声の言うがままに撮っていますしそれが全てですので、私にとって写真は極めて個人的なものです。どこに行こうと何を見ようと「撮れ」と(自分に)言われたら撮る。10秒くらい先に美しい画が来そうだから歩け、撮れ。それ以外は絶対撮らない。カメラをバッグから出すことすらしない。

なので作品というよりは「微小時間キュレーター」として、ある瞬間を切り取り集めた断片を「これ良くない?○□頃の△△にこの瞬間があったよ」って紹介してるようなニュアンスになるのかな?故に、景観写真に置いても何かしらの意味で時間(時期)情報を盛り込んでるとは思います。夜の写真が極端に少ないのもそのせいじゃないかと。たぶん。昼は太陽の位置と光の色温度でかなり情報持てますからね。かつて生活を共にしていた相方の写真なども数多くとっていましたが、それとて一緒に過ごしていた時の「微小時間キュレーター」だったと、今は思います。*2

 

 

Summer days -21-

Summer days -27-

 

察しの通り、自分の写真に創作という概念はほとんど無い気がします。創作してまで世に問いたい主義主張は特に持っていないかな。やってる人は凄いなーって思います。本当に創作になってるかどうかは別としてね。*3

 

自分の直感に従ってかき集めた「微小時間の寄せ集めが作品たりうるか」という話。自分のものさしで言えば、たりえません。微小時間キュレーターとして集めた断片をまとめることはできると思います。それを作品と呼ぶかどうかは、それこそ見る人の勝手に任せたいですね。

 

 

Summer days -26-

Summer days -24-

 

そうして、私は内なる声に従って好き勝手に撮り続けようと思います。

 

 

 

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*1:流行りとかウケとか、なんだろ、よく知らん街のどっかの子供が縄跳びしてる、くらいなもんです。あ、そう。どうぞご自由に。流行りのドリンク飲むのに3時間並んだ?あ、そう。どうぞご自由に。俺は他にやりたいこと興味のあることが山のようにあるんで。

*2:今はもう他人ですから、当時の写真は全て封印しました。

*3:ポートレート写真、というものに対して少しいやかなり食傷気味。ぶっちゃけ、自分と人生をかけて関係を持っている訳でも無い相手と共有した時間に、断片として残したい何かがあるのか? そういう軸ではなく作品として創作したのであれば、世に問いかける何かしらのゆるぎない主義主張が明確にあるのか? 写真を見てそれがビンビン伝わってくるのか? 単に綺麗、というなら普遍性のあるブッチギリの美しさとかあるのか? たぶん私はこんなふうに見ちゃってるんだと思います。無理やり言葉にするとね。一方で「宣材写真」は明快ですね。宣材ですもの。本人が魅力的に見える使い勝手の良い「宣材」を相手に提供すればOK。実に明快。