SNOPAN PHOTOGRAPHY / BLOG

外資で未来のスマホカメラを研究開発するオッサンの戯言

隣の芝と非日常とシルクロード

海外の写真に憧れを持つのは何故でしょうか。
紀元前のころ中国原産の絹が西方で貴重な品として扱われたのは何故でしょうか。
そもそも観光という事柄が成立するのは何故でしょうか。

隣の芝が青く見えるのも非日常に憧れるのも
皆、根っこは同じところなんだと思います。

つまり、自分の生活圏と離れた世界、風習、文化、環境は
そもそも(よほどの事由が無ければ)基本的にプラスに感じる。
感じて当たり前だと。数千年前からそうだったのですから。

 

街中に住んでいれば豊かな自然に憧れる。
豊かな自然の中に住んでいれば、大都会の夜景に憧れる。
国外の写真に憧れる。異文化の写真に憧れる。夜空の写真に憧れる。

それらは全て
自分の日常にはない非日常ですから。
隣の芝ですから。

 

自分のとっての日常というのが何なのか、という定義付けは
現時点での状況と一致するとは限らないと思います。

例えば、私について言えばですね
幼少期は大きな国道沿いのマンションに住んでいたので
田舎暮らしに凄く憧れていました。
祖母や祖父の住む母の実家に行くたびに「田舎に住みたい」と
念仏のように言っていた記憶があります。

高校生のときに念願叶い
家から徒歩10分の最寄駅は無人駅
電車ではなくてディーゼル機関車は多くて1時間に1本、単線
最寄のスーパーまで徒歩30分
近所で普通にリスや蛇を見るし
空は青も深く、雲もダイナミックで表情豊かで賑やか。
そんな凄い田舎に引越し
大学を卒業するまでの数年間住んでいました。

交通は非常に不便でしたが
言葉に出来ない何とも言えない満ち足りた気分でした。
毎日が。

でもそれって、根底に「街中暮らしの日常」がどこかに根付いていて
たとえ田舎に引っ越して、見かけの日常が田舎暮らしになったとしても
「憧れていた非日常の世界に飛び込んで、そこで毎日暮らしている」
という感覚だったのかもしれません。

 

例え、自分の生まれ育った街を気に入っていたとしても
年に一度の夏祭りや、年末年始など、毎日の生活には無い
ちょっとしたイベントも言ってみれば日常に最も近い非日常でしょうか。
玄関や居間に花瓶をおき、花をそえる。
これもちょっとした非日常でしょうか。そもそも生活に必要ないですしね。

もちろん、日常/非日常というのは人によって全く違うものでしょう。
中には似通った人が居ることもあるでしょう。

 

私が花や海や空を撮るのが好きなのは
それが私にとっての非日常だからだと自覚しています。
故に、それが日常の方々にはあまり響かないと思います。*1
横浜に住みだして20年経ちますが、もともとが街中育ちですし
横浜の夜景が私にとっては横浜の夜景以上でも以下でもないのと同じ。

 

外国の人たちが日本に来て写真を撮って、それを見ても
そのほとんどは何も感じないと思います。我々にとっては当たり前の風景ですから。
でも稀に「その外国の方ならではの目線で鋭く切り取った我々の日常」ってありますよね。
キャプション無しで響いてくるやつ。
 

自分にとっての非日常写真をとって、その非日常を日常とする人達の琴線にふれたなら
それは非日常、隣の芝、シルクロードの枠から飛び出た
本質的に「普遍的な意味で伝わる何か」が写っているんだと思います。

そういう写真を、撮ってみたいですね。
ま、だからといってそこが目標ってわけでも無いんですけどね。

 

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*1:もし何か琴線にふれる部分があればもちろん嬉しいですけどね。