SNOPAN PHOTOGRAPHY / BLOG

外資で未来のスマホカメラを研究開発するオッサンの戯言

戯言

 

どんなに綺麗事を言っても、結局は似たような人生観やら生活様式やら好みやら価値観やらを持っている相手にしか響かないのよね。普通は。

 

田舎の写真を撮っても田舎住みには見慣れて飽きた絵面。
都会の写真を撮っても都会住みには見慣れて飽きた絵面。
田舎の写真を喜んで撮る都会育ち、見て喜ぶ都会育ち。
都会の写真を喜んで撮る田舎育ち、見て喜ぶ田舎育ち。

ネーチャン系写真を垂れ流されても「で?」っていうやつな。
ネーチャン系写真を喜んで撮る非モテ勢、見て喜ぶ非モテ勢。
人物写真は商材か、宣材か、人生を一定期間分かち合った相手(友人知人恩人親族)の個人的感情を伴った記録か、それ以外はマジ用途不明。

薄汚え路地を喜んで撮る公衆衛生の整った国の住民、見て喜ぶ公衆衛生の整った国の住民。そこに住んでる人は当然見飽きてる。

 

こういうの無限にあるでしょ。
日本の写真を喜んで撮る外国人、見て喜ぶ外国人。
外国の写真を喜んで撮る日本人、見て喜ぶ日本人。

近代化の遅れたアジア系の写真を好んで見るのは主に白人。現地の人はその生活に飽き飽きしていて見たくもないそうな、と何処かで読んだ気がする。


上記を一言で言えば
「隣の芝生は青く見える」
ってやつよね。非日常とも言われる。

自分が非日常だと思っている対象は同じく非日常だと思っている相手にしか刺さらない。それ以外には全く響かない。シルクロード時代から、西の物は東で、東の物は西で高値で取引できた頃から、変わらない人間の本能みたいなものなので、どうにも変わらないんでしょうね。

これが普通に存在する壁。
これを乗り越えられる人は本当に極少数。
以上、ちょっと考えればすぐたどり着くであろう公然周知の当たり前の事柄。


乗り越えられるアガリには言葉の補助無くともそれ単独で普遍的で抽象的な美しさがある。知らんけど←

 

撮るのは自由だし世に晒すのも自由よもちろん。
でもまあ見せる相手くらいはよく選んでも良いかもね。

私はノーケア。虚空に向かって投げ続ける←